辨 |
武蔵野(ムサシノ)という言葉は、早く『萬葉集』東歌(「武藏國の往來相聞の歌九首」の内)に「武藏野(ムザシノ)」と見える。例えば、
武藏野のくさ(草)はもろむ(諸向)き
かもかくもきみ(君)がまにまに吾(あ)はよりにしを (3377)
わがせこ(背子)を何(あ)どかもい(言)はむ
牟射志野(むざしの)の うけらがはな(花)のとき(時)な(無)きものを (3379)
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武蔵野とは、第一義的には、武蔵国に拡がる原野の意であろう。
武蔵国の範囲は、源順『倭名類聚抄』(ca.934)巻5「武蔵国」に次のようにある。
武蔵国〔国府在多磨郡。行程上二十九日、下十五日。〕管二十一〔田三万五千五百七十四町七段九十六歩。正公各四十万束。本稲百一万三千七百五十束五把、雑稲三十一万三千七百五十束五把。〕
久良〔久良岐〕
都筑〔豆々岐〕
多磨〔太婆、国府〕
橘樹〔太知波奈〕
荏原〔江波良〕
豊島〔止志末〕
足立〔阿太知〕
新座〔爾比久良〕
入間〔伊留末〕
高麗〔古末〕
比企〔比岐〕
横見〔与古美、今称吉見〕
埼玉〔佐伊太末〕
大里〔於保佐止〕
男衾〔乎夫須万〕
幡羅〔原〕
榛沢〔波牟佐波〕
那珂
児玉〔古太万〕
賀美〔上〕 秩父〔知々夫〕 |
今日、地理の用語として武蔵野は、武蔵野台地を指すという。
田村剛・本田正次編『武蔵野』(1941,科学主義工業社)より(仮名・漢字は今日のものに改めた)。
「関東山地の東縁から東へ、東京山の手の突端まで兵端に、然し乍ら漸次東へ低下している海抜一八〇米以下の台地がある。第一図にМ面として、縦に平行線を入れた部分がそれである。このМ面は皆同時代の生成物であり、お互い同志親戚の間柄にある。即ち・・・この様に地質学的には親戚全部をМ面、即ち武蔵野面と呼んで居るが、地理学者が普通に称する武蔵野台地とは、西は青梅が扇の要になり、東に向って扇を半分開いた様な台地で入間川、荒川、多摩川に包まれた略々矩形に近い様な地域を指すのである。」
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訓 |
武蔵の国の大半の植生は、古代から近世初期まで、ススキ型草原であった。これを「武蔵野」と呼ぶ。 |
説 |
武蔵の国の原風景は、カシ・シイなどの常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林であったという。人の手が入るようになると、これを焼き払い、開墾して、「武蔵野」が現出した。『万葉集』時代には、武蔵の国は一面のススキが原であったらしい。
ススキが原は、一年にいちど野焼き(火入れ)をするなどして維持された。人手による維持が途切れると、森林への遷移が始まる。「武蔵野」のところどころに、二次林として成立したのが、コナラ・シデ・クヌギ・アカマツ・クリなどからなる雑木林であった。江戸時代中期には、武蔵の国の大半は雑木林に変り、ススキが原としての「武蔵野」は失われた。 |
本田正次「武蔵野の野草」(田村剛・本田正次編『武蔵野』所収)に、昭和16年(1941)当時の武蔵野の植物景観が、次のように記録されている(仮名・漢字、植物名の表記は、今日のものに改めた)。
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誌 |
『万葉集』に、
武蔵野の くさ(草)はもろむ(諸向)き かもかくも
きみ(君)がまにまに吾はよ(寄)りにしを (14/3377,読人知らず)
とある。草がみな同じ方向に靡いているというのは、強い風によるのであろう。 |
武蔵野で行われた野焼きは、在原業平(825-880)を主人公とした『伊勢物語』(11c.頃)に取り上げられている。
むかし、をとこありけり。人のむすめをぬすみて、武蔵野へ率(ゐ)て行くほどに、ぬす人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかにおきて、逃げにけり。道来る人、この野はぬす人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、
武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり吾もこもれり
とよみけるをききて、女をばとりて、ともに率ていにけり。 |
今日に残る野火止(のびどめ)の地名はこの野焼きに関係するという。
此あたりに野火とめのつかといふ塚あり。けふはなやきそと詠ぜしによりて。烽火たちまちにやけとまりけるとなむ。それより此塚をのびとめと名づけ侍るよし。國の人申侍ければ。
わか草の妻もこもらぬ冬されに軈てもかるゝのひとめの塚 |
道興准后『廻國雜記』(1486)
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野火留の里は、昔男の我もこもれりとありし所と聞くに、そのあたりに思はれてなつかしく。此辺西瓜を作る。
瓜むいて芒の風に吹かれけり |
小林一茶『草津道の記』(1808) |
今日、野火止塚・業平塚と呼ばれる塚が平林寺(新座市野火止)境内に現存するが、実際には古い古墳であろう、ともいう。
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文学作品における武蔵野の描写としてよく引かれるものは、後深草院二条(源雅忠の女,1258-?)が、晩年に一生を振返って書いた『問はず語り』(ca.1304)の中の、次の一文。
正応三年(1290,作者33歳)秋八月、善光寺より帰り、武蔵野の秋を探る。八月のはじめつかたにもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさにこそ今までこれらにも侍りつれ、と思ひて、武蔵国へかへりて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野のなかをはるばるとわけゆくに、はぎ、をみなへし、をぎ、すすきよりほかは、またまじる物もなく、これが高さは、馬にのりたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや、わけゆけども尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿などもあれ、はるばる一通りは、こしかたゆくすゑ野原なり。観音堂はちとひきあがりて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに草の原よりいづる月かげと思ひいづれば、こよひは十五夜なりけり。・・・あけぬれば、さのみ野原にやどるべきならねばかへりぬ。 |
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歌に詠われた武蔵野もススキが原。
秋風の ふきとふきぬる むさしのは なべてくさばの 色かはりけり
(よみ人しらず、『古今和歌集』)
たまにぬく つゆはこぼれて むさしのの くさのは(葉)むすぶ 秋のはつかぜ
(西行(1118-1190)『山家集』)
そのほか、
むさし野は 月の入るべき 嶺もなし 尾花が末に かゝる白雲 (1215,源通方)
むさしのや ゆけども秋の はてぞなき いかなる風か 末に吹くらん (源通光)
行末は 空もひとつの むさし野に 草のはらより いづる月影 (同)
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平安時代、武蔵野の名花として、ムラサキが意識された。
紫の ひともと故に むさし野の 草はみながら あはれとぞ見る
(読み人しらず、『古今和歌集』17)
とある。この歌は、「武蔵野、一本の紫、ゆかりの人」という連携したイメージを人々に植えつけ、以下に挙げるような歌を生み出した。
むらさきの 色こき時は めもはるに 野なるくさ木ぞ わかれざりける
(在原業平(825-880)、『古今集』17・『伊勢物語』41)
武蔵野に いろやかよへる 藤の花 若紫に そめて見ゆらん (913『亭子院歌合』)
武蔵野は 袖ひつ許 わけしかど わか紫は たづねわびにき (よみ人しらず、『後撰集』)
紫の 色にはさくな むさしのの 草のゆかりと 人もこそしれ
(藤原高光(941-994)、『拾遺和歌集』)
むさし野の ゆかりの色も とひわびぬ みながら霞む 春の若草
(藤原定家(1162-1241)、『最勝四天王院障子和歌』)
さらに又 つまどふくれの 武蔵野に ゆかりの草の 色もむつまし
(藤原(西園寺)公経(1171-1244)、『千五百番歌合』)
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ススキが原としての武蔵野は、江戸時代前期まで続いた。その頃になると、詠み人知らずの次の歌が、人口に膾炙した。
武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ
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武蔵野にひろごる菊のひとかぶた (芭蕉,1644-1694)
むさし野やさはるものなき君が笠 (同)
きじ啼(なく)や草の武蔵の八平氏 (蕪村,1716-1783)
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武蔵野が雑木林に変ったのは、江戸時代中期以降である。 |
近代に入ると、国木田独歩(1871-1908)が雑木林としての武蔵野を描写し(『武蔵野』1898)、これより武蔵野は雑木林、という観念が出来上がった。
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そのほか、
武蔵野の芒の梟買ひに来ておそかりしかば灯ともしにけり
暮れて洗ふ大根(おほね)の白さ土低く武蔵野の闇はひろがりて居り
(島木赤彦『馬鈴薯の花』)
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